奥村土牛さんをご存じでしょうか。
日本画家です。
「アートは決して完成しない。キャンバスがどれほど献身的であっても、それは常に不完全。」
なのだそうです。
私はあまり奥村土牛さんを存じ上げていませんが
もう20年近い昔のNHKで奥村土牛を知りました。
その時に「不完全こそ美しい」。
そんな言葉をおっしゃっていたのでとても印象的でした。
奥村さんが印象的というよりかは、その言葉自体が
とても心に残るのです。
その頃の私は、学生でしたが、
完璧主義のようなところがありました。
完璧に出来ないのに・・・
気に入るものは分からない(完璧のゴールが分からない)のに、
気に入らないことは分かっていると言った感じです。
ややこしいというよりは嫌な奴。
学生でしたが、短大ですし、すぐ就職。
就職だ!学歴だ!いい会社に!
結婚だ・・・・
自分が本当に望むものが分からない。
そして勇気がない。
バイトもそんなに・・・
大手を受ける勇気もない。
なんとなしに見たあのNHKで
「不完全こそ美しい」と言われて
それが理解できない・・・・
だけど心に引っかかるのです。
自分は完全ではない(何を完全とするのか、そして完全とは程遠いとだけは感じる)
世間で言う幸せ(=自分の幸せとは限らないけど、それを知らない)
世間からはみ出るのは怖い。
そして、それが美しいだなんて思えない。
どうすればいいのかも分からない。
ただ、反対にこの言葉に少しだけ救われた気もしていました。
それを美しいと思えるなら・・・
なんて、楽?楽しい? 心が軽くなるような・・・♡
そんな印象も得ていました。
それから5年後くらいにヨーガに出会い。
不完全だからこそ、人が人と 人が自然と
動物や世界と
・・・・繋がれる・・・
と言うか、私の不完全さは 誰かに補ってもいいし
人の苦手を私が行う・・・行わなくてもいいし 補えないし 笑
ただ、人も動物も誰かの愛しい誰かではある。
誰からも愛されていない、と
感じる時も、
でも、誰か自分以外がいなければ
愛せないです。
自分以外が必要です。
愛とか
好きとか
楽しいとか
つまらないとか・・・
何でも自分以外がないと それらは分からないですし、
愛せないですよね。愛したくても。
あなたは誰かにとって必要な存在だと思います。
感情がなんであれ。
つまり私たちはお互いに、誰かの必要である存在であると思うと
不完全であろうとも不必要な人間ではないのです。
むしろ、不完全であっても必要不可欠人間だな、と思います。
そう思うと世界はこの不完全さでもって調和(お互いに)と
思うと、世界からするとこの不完全さとは完全なのです。
と、たまに思い出しつつ。です。
my narrative
my narrative ナラティブとは「物語」。 物語の語り手は自分。自分自身が「物語」=「人生」の主人公となり、またその物語は完結せずに変化(進化)し続けます。
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